父はがんに、母はうつ病に、そして弟は離婚…/我が家に襲いかかった不幸の連鎖

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父のがんから始まった不幸の連鎖の話。。

こんにちは。精神科ナースのここあんです。

今回はここあんの小学生の時からの話です。

そのころ母親はお店を持ち、美容師として、経営者として忙しい毎日を送っていました。

昭和の高度成長期に店を持ったというタイミング、場所の良さ、技術や話術も相まってそこそこ繁盛していました。

小学生だった私は「ただいま~」と帰ってきても母から「お帰りなさい」と返事をしてもらったことはなく、お客さんがたくさん来てくれることもちっとも嬉しくなかったし、母親に優しさを感じたこともなかったです。

店が忙しいということは、食事も定時に取れない、トイレにも行きたい時に行かれない、お客さんには気を遣わなくてはならないなど常にストレスがあったのでしょう。そのストレス先は長女の私に向けられました。弟は私が壁になり怒られたところを見たことが殆どありません。何か悪いことをした覚えもないのに毎日何かしらの理由をつけては怒られていました。なので母を好きだと思ったことはありませんでした。

中学生になると反抗期もあり、母の言葉一つ一つに反抗しまくりました。小学生のころの仕返しと言わんばかりに…。そんな反抗期丸出しの自分のことも嫌いでしたが、母の対する怒りが収まらず、喧嘩の日々でした。

逆に父は優しく、小学校の頃は休みの日になると弟や私の友達も連れていろいろな所へ遊びに連れて行ってくれました。母に怒られ続けても父がかわいがってくれたお陰で不良娘にならずに済んだかな~と思っています(^^;

そんな父でしたがお酒とたばこは止められず、いつも身体のことが心配でした。

「お父さん、たばこ止めないと癌になるよ。お願いだから止めて」とよく言ったものです。しかし、かわいい?娘の頼みでも止めることはありませんでした。

雨の日に酔っぱらって足を滑らせ、駅のホームから線路に転落したこともあります。肋骨折って入院しました。それでもお酒もたばこもやめることはなく、仕事に復帰してからも毎日飲んで帰って来るので、いつかは肺がんか肝臓がんになってしまうんだろうなと思っていました。

そんな父ですから母の逆鱗に触れることも多く、母はよく「離婚したい」と口に出していました。

私は「いつかは親たちは離婚するんだろうか。私はどっちについていけばいいんだろうか。弟は…」と悩んでいました。

父がん発覚…

父が50歳になったとき、健康診断を受けて「何か調子の悪いところはありますか?」と医師に尋ねられ、「喉がつかえるような感じがします」と告げたことで再検査となり、食道がんが発覚しました。

当時はまだがんは不治の病というイメージが強く、「お父さん、死んでしまうのかな」と母と話していたら、涙が出てきて、二人で泣いていました。

そんな泣いているところに父が珍しく仕事から早く帰ってきてびっくりしてしまい「お父さんがんだって!」と思わず本人に告知していました。

父は「え、がん?」と驚いていましたが、そこまで落ち込んでいる様子もなく、こっちの方がショック状態でした。

そこから母が変わっていった…

父に対し喧嘩ごしだった母がまず行ったことは周りの人や店のお客さんにがん治療に優れた病院、医師はいないか尋ねることでした。

有難いことにお客さんの息子さんが医者という方がいて、がん専門病院の腕の良い医師を紹介してくれたのでした。

手術までの順番待ちに1か月はかかると言われていましたが、早めの受診と手術をしていただきました。

詩吟の師匠でもあった父は当時最先端の声帯温存手術に成功。本当に父の声と命を救ってもらえたことに感謝でした。

その後13年間働きましたが、手術した食道の繋ぎ部分が自分の手首の皮膚を使ったため、萎縮が起き、固形物が食道を通らなくなり、更に縮まって、唾も飲めなくなり、どんどん衰弱していき、いよいよ父もダメなのかなと思いました。

母は私より苦しかったと思います。

そのころ私は他県に嫁いでいて子育て最中だったので簡単には実家に戻れず。

父の再手術は食道に穴が開いてしまい失敗しました。母は訴えたかったと言っていましたが、次の手術もしてもらわなくてはならないので我慢しました。

再々手術のため、今度は同じ系列ですが紹介で更に実家から遠い専門病院に入院。

母は着替えを持って何時間も掛けて面会にいく日々でしたが店もあったので限界となり、転勤で遠くの県に行っていた弟夫婦の嫁に手伝いに来てもらいました。

母も店や父のことでの心労の中、何とか頑張り続けていました。

離婚まで考えていた父に対してそのころは何とか生きてほしいと必死の様子でした。

そして再々手術は…前回の失敗のため声帯は切除することになりましたが何とか成功し命は助かりました。

そして母がうつに…

医師に「もう旦那さんは大丈夫ですよ。退院していいですよ」と言われた瞬間、母はうつ状態になったのです。

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本来なら手術が成功し嬉しいはずの退院が…医師の「大丈夫ですよ」の言葉で緊張の糸れてしまったようです。

何もやる気が起こらなくなってしまい…料理、洗濯、掃除などの家事をやる気持ちが全くなくなり、心療内科で診てもらいうつ病と診断されました。

気が強く、お喋り好きな母の表情が無表情となり別人かと思うほど変わってしまいました。

本当なら弟の嫁も弟の元に帰りたかったと思いますが、母のうつ病で帰ることも出来ず…。

弟の嫁は退院してきた父の面倒までみなくてはならなくなり、ストレスが溜まっていったようです。

私は子供たちが小さかったため、たまには帰っていましたが長くいることは出来ず。

私と子どもたちが帰るとき、母はずっと私たちの姿が見えなくなるまで見送っていました。

今まではそんなにずっと見送ることなどなかった母だったので、それほど娘が帰ってしまうことに寂しさを感じているのかと思うと後ろ髪を引かれる思いでした。

弟は離婚…そして母は…

弟の嫁は子供がいなかったため、父母のために頑張ってくれましたが、ある出来事が彼女を怒らせてしまい、「もう二度と来ません」と言って弟の元に帰ってしましました。しかし…弟ともうまくいかなくなり、一年後に離婚してしまいました。両親の病気は弟の人生も変えてしまうことになってしまいました。

父は命は助かりましたが声を失い、母は緊張の糸が切れてうつ病になり、弟は離婚と不幸の連鎖と思えるような日々でした。

頼る嫁もいなくなったことで母は何とか自分で父を支えなければならないもう誰にも迷惑を掛けてはいけない、と思ったようで、心療内科に通いながらうつ病から脱却するために…辛いようでしたが家事など少しずつやり始めるようになりました。

私は電話で話し相手になることくらいしかできませんでしたが、それも寂しさに押しつぶれそうな母にとって楽しみの一つだったようです。

「今日ね、頑張って煮物作ったよ。やりたくないけど誰も作ってくれないしね」とか

「心療内科の先生がこんなこと言ってたよ。本当によく話を聴いてくれるんだよ」とか…

子どもの頃、気が強くて怒りっぽい母が嫌いでしたが、うつ病になった母は逆にかわいいと思うほど優しくなっていました。うつ病は困るけど、こんな優しい母ならずっと続いてほしいなと思ってしまうほどでした。

母がいつも言っていた言葉は「薄紙を剥ぐように」と、なかなか目に見えて良くはならないとの例えでよく使っていました。

うつ病は「薄紙を剥ぐように…」少しずつですが良くなっていく病気と言えます。

そして今…

父は声を失ってから積極的に話すこともなくなり、老化の勢いが止まらず、それでも最初のがん手術から25年間生きてくれました。

弟は離婚してからしばらく独身でしたが、40代で16歳下の嫁さんと再婚し、二人の子供に恵まれました。

母はうつから少しずつ元気を取り戻し、今は近所の人を家に招いてお喋りも楽しめるよになりました。

今でも私と喧嘩しますが、以前にはなかった「ごめんね」「ありがとう」と言う言葉が出てくるようになり、うつ病の苦しさから学んだ思いやりかなと思います。

今は母が愛おしく、長生きしてほしいと思っています(*^^*)

 

 

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